戊辰戦争終結の地、函館。
函館は三方を海に囲まれている地形から風の強い日が多く、明治以降幾度となく大火に見舞われています。ですが今もなお、忠義を貫いて戦ったサムライたちの痕跡を残す場所は少なくありません。
今回は当時のまま現存している貴重なスポットや箱館戦争にゆかりのある神社仏閣などをご案内します。
蝦夷共和国の本陣「五稜郭」

榎本武揚を総督とする蝦夷共和国(旧幕府軍)が本拠地としていたのが、この五稜郭内の箱館奉行所です。
箱館戦争終結の2年後、明治政府によって建物はほとんど取り壊されましたが、米蔵として建築された兵糧庫のみ築造当時のものが残されています。



「ゴールデンカムイ」で土方歳三が「箱館戦争前からある建物」として言及していましたね!
旧幕府軍の戦死者を埋葬したとされる土饅頭。土方歳三の亡骸の行方は諸説あり、今も所在は定かではありませんが、ここに隻腕の剣士・伊庭八郎の遺体と一緒に埋葬したという記述が残っています。

北海道函館市五稜郭町44
函館市電「五稜郭公園前」から徒歩10分
常時 郭内は(4月~10月)5:00~19:00 (11月~3月)5:00~18:00
見学無料
土方歳三最期の地「一本木関門」

明治2年(1869)5月11日、新政府軍による砲撃が開始され戦いの火蓋が切られます。
薩摩藩・黒田清隆率いる新政府軍の猛攻により新選組が守りについていた弁天台場が孤立状態となり、土方は援軍を引き連れて台場に向かいます。
ちょうどこの一本木関門に差し掛かった時、箱館湾で海戦をしていた旧幕府軍の軍艦・幡龍丸の砲撃により敵艦・朝陽が沈没したのです。
その轟音を聞いた土方は「この機、失するべからず」と反撃を命令。傍にいた隊士・大野右仲がこの時の土方の言葉を残しています。
「吾、この柵にありて退く者は斬らん」 函館戦記|大野右仲
反撃に向かった大野でしたが、味方の敗走兵がどんどん関門を通過していくのを不思議に思い、引き返したところ新選組隊士・安富才助と大島寅雄に土方の戦死を告げられたのです。

再現された一本木関門横の、地碑には全国から訪れたであろう土方ファンからの献花が絶えません。
北海道函館市若松町33(若松緑地公園内)
函館駅から徒歩10分
見学自由
函館最古の寺院「高龍寺」

1633年(寛永10)に創建された、函館で最も古い寺院です。元々は函館駅よりもっと北の辺りにあり、1879年(明治12)に移転し現在に至ります。
箱館戦争時、高龍寺は旧幕府軍の箱館病院分院にあてられていました。そこに新政府軍が乱入し、傷病兵らを惨殺したのち建物に放火をするという痛ましい事件が起きます。
敵味方区別なく中立の立場を保っていた病院で起きた惨劇でした。
この時、箱館病院の頭取を務めていたのは幕府の奥詰医師であった高松凌雲。日本における赤十字運動の先駆者といわれています。
多くの会津遊撃隊が犠牲になったことから、高龍寺が現在の場所に移転した翌年に、旧会津藩士らが「傷心惨目の碑」を建て同胞の死を悼んだといいます。

碑の傍らには、福島県知事であった松平勇雄氏からの献樹があります。彼の祖父は混沌の幕末期に会津藩主を務めた松平容保です。

北海道函館市船見町21-11
函館市電「函館どつく前」から徒歩8分
9:00~16:00 境内見学自由
箱館新選組の屯所「称名寺」

土方は箱館政府において陸軍奉行並という役職を任ぜられますが、他に箱館市中取締・陸海軍裁判局頭取も兼ねていました。
その箱館市中取締任務にともなって、箱館の警備にあたっていたのが新選組であり、この称名寺を屯所としていたのです。
称名寺は明治以降3度にわたり大火の被害を受けており、当時屯所であった建物は全焼により残念ながら残っていません。


現在地の称名寺には、土方と隊士4名(野村利三郎・栗原仙之助・糟屋十郎・小林幸次郎)の供養碑があります。

北海道函館市舟見町18-14
函館市電「函館どつく前」から徒歩8分
9:00~16:00 境内見学自由
北海道函館市大町4-6(函館元町ホテル)
函館市電「大町」から徒歩2分
宮司は坂本龍馬の親戚「山上大神宮」

長さ620m、傾斜が厳しいことで知られる「幸坂」をのぼった突き当たりに鎮座している山上大神宮。
ここは旧幕府軍に加わった桑名藩主・松平定敬の御座所(=居室)として使用されました。大火によって現在の場所に移転しており、当時はもう少し坂の下にありました。
幕末期、8代宮司だったのは坂本龍馬の従兄弟違いの親戚である沢辺琢磨でした。
北海道函館市船見町15-1
箱館市電「函館どつく前」から徒歩15分
境内見学自由
降伏式の地「亀田八幡宮」

函館市電のルートから離れており、少し行きづらい場所にありますが幕末好きなら絶対にここは行ってほしい、箱館戦争降伏式の地「亀田八幡宮」。
旧幕府軍正式降伏の前日、明治2年(1869)5月17日に総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎ら旧幕府軍幹部と新政府軍の陸軍参謀・黒田清隆らがここで降伏文書を交わしています。
現在の拝殿は昭和39年(1964)に造られたものですが、箱館戦争時の拝殿は現在も姿かたちを変えず神輿殿として残されています。羽目板には無数の銃弾の跡が残っており、戦いの激しさをまざまざと感じます。

旧拝殿横の碑銘は榎本武揚の曾孫である榎本隆充氏によって書かれたものです。

時代の終わりと始まりの転換点である亀田八幡宮は、とても希少な場所といえるのではないでしょうか。
北海道函館市八幡町3-2
函館バス「宮前町(サツドラ前)」から徒歩2分
境内見学自由
ラストサムライが眠る「碧血碑」

明治8年(1875)に榎本武揚や大鳥啓介らによって建立された、箱館戦争における旧幕府軍の戦没者を弔う慰霊碑。
建立時より今に至るまで多くの人々に大切にされ、当時のまま函館山の麓に鎮座しています。
北海道函館市谷地頭1
市電「谷地頭」電停下車 徒歩15分
見学自由(駐車場なし)
新政府軍の招魂「函館護国神社」
ここまで旧幕府軍慰霊の地をご案内してきましたが、この函館護国神社は箱館戦争で戦死した新政府軍の兵士を祀るために創建された神社です。
終戦後、室蘭から箱館に移送された旧幕府軍捕虜の一部を使役して、函館山麓に招魂場を造らせたのがはじまりといいます。
境内にある「招魂場の碑」の題字は、箱館戦争において新政府軍で総督を務めた、当時24歳の公家・清水谷公考によるものです。

歴史において、どちらが正義でどちらが悪であったかという解釈は見方によって異なります。ただ誰もが自分の「義」を信じて戦っていた、そのことを慮りたいですね。