北海道函館といえば、函館朝市・赤レンガ倉庫・函館山の夜景などがメジャーな観光スポットとして思いつくでしょう。
特に五稜郭は新選組の土方歳三が戦った地として多くのファンが訪れ、賑わいをみせています。
今回はその賑わいから少し離れた、幕末好きには絶対外せない土方歳三ら旧幕府軍を弔う「碧血碑」について深掘りしていきます。
誰が、何のために、どうして建てたのか。建立に関わった人々の義理と人情の物語を、碧血碑までの道のりと一緒にご案内していきたいと思います。
碧血碑とは

碧血碑は北海道函館市、函館山の麓に明治8年(1875年)5月に榎本武揚や大鳥圭介らの協力を得て、建立されました。
戊辰戦争、特に箱館戦争における旧幕府軍、土方歳三や伊庭八郎ら約800人の戦没者を弔う慰霊碑です。
碧血碑の由来
「碧血」とは荘子外篇の「萇弘は蜀に死す。其の血を蔵すること3年にして、化して碧と為る」という中国故事に由来。
「忠義を貫いて死んだ者の流した血は、3年経てば地中で碧玉(宝石)と化す」という伝説からきています。
箱館戦争とは
江戸時代最後の年、慶応4年(1868年)から翌明治2年(1869年)のあいだに全国で起きた「戊辰戦争」の最後の戦いが「箱館戦争」です。
発端となった1月の「鳥羽・伏見の戦い」で、薩摩・長州藩率いる新政府軍が戦いの中、錦の御旗(天皇の象徴、官軍の旗)を掲げたことから、幕府軍は一気に賊軍となり劣勢となります。
新政府軍の方針に不満を抱いた、大鳥圭介ら旧幕府陸軍や新選組は各地で転戦したのち、江戸を脱出してきた榎本率いる旧幕府海軍と仙台で合流。蝦夷地(北海道)へ向かうのです。
五稜郭の制圧、蝦夷地唯一の藩である松前藩の攻略をもって榎本を総裁とした「蝦夷共和国」樹立を果たしますが、これを良しとしない新政府軍。
明治2年(1869年)5月11日、箱館総攻撃の火蓋が切られます。しかし新政府軍の圧倒的な戦力差に敵わず、18日榎本軍は降伏を宣言したのでした。
ここに箱館戦争および戊辰戦争は終結となります。
「義」を貫いた侠客・柳川熊吉
箱館戦争が終結した後、明治政府は「賊軍の埋葬を行ってはならない」と命令し、遺体は市中に放置されたままでした。
それに義憤を感じた侠客の柳川熊吉は、協力者とともに遺体を集め、数日掛けて実行寺に葬ります。
いわば明治政府に喧嘩を売る行為ですが、自らの命を顧みない熊吉の侠気によって犠牲者の鎮魂がなされたのです。
その後、熊吉は函館山の土地を購入し遺体を改葬、榎本らによって現在の場所に「碧血碑」が建てられます。晩年の熊吉は碧血碑の近くに居住し、「義」に殉じた武士たちを守るため墓守として生涯を尽くしたといいます。
土方歳三と碧血碑

箱館総攻撃の日、土方は一本木関門にて腹部に銃弾をうけ戦死しています(場所は諸説あり)。
蝦夷地では、京都で新選組副長として内外問わず恐れられていた頃とは少し違う土方の姿を、隊士の中島登はこう書き残しています。
「生質英才にしてあくまで剛直なりしが、年の長ずるに従い緩和にして、人の帰すること赤子の母を慕うがごとし」 もともと優れた才能を持っていて、気が強く自分を曲げないような人であったが、年を重ねるにつれ温和になり、人が集まってくる様子はまるで赤子が母を慕うようだった
悪化していく戦況の中、蝦夷地に渡ってから陸での戦いでは無敗の土方が、鬼神のごとく戦う姿はどれほど味方を鼓舞したことでしょう。
碧血碑建立において、土方が重要視されていたことが伺える史料が2つ残されています。
幼馴染の依頼による報告書
歳三の曾祖母の実家にあたる「平家」で幼なじみであった平忠次郎が、室蘭警察署に勤めていた多摩出身の加藤福太郎に歳三の埋葬地について調査を依頼します。その報告書を一部抜粋。
柳川などが尽力取調のうえ、函館よりわずかに離れたる七飯村という所の焔魔堂にて、土葬のうえ、宝物のごとく大切に致しいること判然(中略)碧血碑は、数の戦死者あるなかにて、最も土方君に重きをおき、早くいわば土方君のために建てたるものというも差し支えなしという
土方歳三資料館蔵|歳三の埋葬地を知らせる書状(加藤福太郎筆)

「平家」には、歳三さんが何とも可愛らしい「ぼた餅エピソード」が残されている
榎本武揚の名簿
碧血碑が建立されてから30年以上経過した明治40年(1907年)に榎本武揚が記した『明治辰巳之役東軍戦没者過去帳』という名簿が残されています。

この序章のあとに「箱館之役戦没者霊位」と「奥羽之役戦没者霊位」の2つの名簿がつけられており、箱館之役戦没者霊位では一本木で戦死した土方歳三の名前がはじめに書かれているのです。

榎本は土方の遺体が無事に碧血碑に収められたことを、大変喜んだといいます。
そんな榎本は後年、彼をこのように評しています。
「入室伹清風」 土方歳三という男は、軍議などで部屋に入ってくると清らかな風が流れるような、そんな爽やかな人物であった
蝦夷共和国という組織の中で土方に重要なポジションを任せていることから統率力・判断力においてはもちろん、生まれも育ちも似つかぬ2人ですが、「人間性」においても大変信頼していたのかもしれません。
碧血碑へのアクセス
碧血碑へは、函館市電・谷地頭駅が最寄りです。
函館駅前駅から谷地頭駅までは、2系統・谷地頭ゆきに乗って約12分。

函館市電は、2系統の谷地頭ゆきと5系統の函館どつく前ゆきがあります。間違えて乗っても十字街駅で乗り換えれば大丈夫!

碧血碑までの道のり
谷地頭駅から碧血碑までは徒歩15分ほど。ずっと上り坂です。


この先、整備はされてはいますが階段がつづきます。雨の日、雪の日は十分注意が必要です。草木が生い茂っているので、夏は虫よけ対策をしたほうがいいかもしれません。
階段を2~3分登った先には、鳥のさえずりと木々の葉擦れしか聞こえない広場が。閑かで厳かな空間の傍らに碧血碑はあります。

函館八幡宮からの最短ルート
谷地頭方面には津軽海峡に面した絶景スポット立待岬や「八幡さん」の愛称で市民に親しまれている函館八幡宮が徒歩圏内にあります。
函館八幡宮で参拝をしてから碧血碑に向かう場合の道筋を辿っていきましょう。



ここから碧血碑に向かうルートですが、登ってきた石段を降りてはいけません。社殿向かって左、お守りや御朱印を受け付けている社務所方向へ歩いて行きます。

地図アプリを使って検索すると石段を降りるルートを案内され、無駄に同じ道をアップダウン!


歩き進めると道が二手に分かれるので、鳥居方面ではなく右の道を進みます。そのまましばらく歩くと右手に妙心寺、通り過ぎると碧血碑に向かう階段となります。

碧血碑と未来を託された者たち

榎本らは新政府軍へ降伏したのち、東京に投獄されます。旧幕府軍の幹部らが赦免されたのは明治5年(1872年)1月でした。
この時、箱館戦争後も戦友たちの亡骸が野ざらしのままになっていたこと、それを収集し埋葬してくれたのが函館市民の善意によるものだったことを知ったのです。
「同志たちを弔いたい」「墓碑を作って供養したい」とかつて箱館戦争を共に戦った同志から声が上がり、函館市民に感謝し函館の地に「碧血碑」を建立することとなりました。

碑石は明治6年(1873年)に大鳥圭介が現地・函館の地を実地に踏査して建設地を決め、同7年に伊豆産の石を使い、東京霊岸島で彫刻、翌年に完成させ海路運搬して現地で組み立てたものになります。
高さ6m、「碧血碑」の文字は大鳥圭介の書とも言われていますが、詳細は不明です。

「明治辰巳、実に此の事有り、石を山上に立てて以て厥(そ)の志を表す」 明治2年、此の事は実際にありました。(そのため)山上に石を建て、それをもって私達の志を表します
詳細は書かず「此の事有り」としか表現できなかったのは、榎本軍の冥福を公に祈るには、まだ世の中に憚りがあったのでしょう。


碧血碑のまとめ
碧血碑は、明治維新という大きな時代のうねりの中で散華した者たちの鎮魂はもちろん、未来を託された者が新しい時代を進むための決意も込められていたのかもしれません。
毎年6月25日には、碧血碑の前で旧幕臣の子孫や関係者ら主催で、慰霊祭が行われています。
「義」を尽くした最後の侍たちの歴史に、思いをはせてみてはいかがでしょうか。
北海道函館市谷地頭1
函館市電「谷地頭」から徒歩15分
見学自由(駐車場なし)