“新選組のふるさと” 東京都日野市は、副長・土方歳三や六番隊組長・井上源三郎の故郷であり、近藤勇や沖田総司らと出会うきっかけとなった “日野宿本陣” があります。
そしてその日野宿のリーダーであり家主の佐藤彦五郎は新選組結成前から彼らと懇意の仲であり、結成後も資金面などで新選組を支えたキーマン。
新選組と密接に関わってきた彦五郎、佐藤家だから知っている彼らの人となり・素の部分を、日野宿本陣の内部と一緒にご案内していきたいと思います。
日野宿本陣とは

大名や旗本などの身分の高い人が宿泊する、宿場の中で一番格式が高い施設のこと
甲州街道の45ある宿場町のひとつ、日野宿。
現在残っている本陣は日野宿のほか、小田原宿本陣(神奈川)と下花咲宿本陣(山梨)のみで、日野宿は都内に唯一のこる本陣建築となっています。
古くからの主屋は嘉永2年(1849)歳三が14歳の頃、大火によって消失し、現存しているのは文久3年(1863)4月に上棟し、元治元年(1864)11月に完成したものになります。
近藤、土方らが京に向けて出発したのは文久3年2月のことなので、現本陣を訪れたのは里帰りの数回だったようです。
・土方歳三 慶応元年(1865)4月10日~18日
慶応3年(1867)10月7日~12日
・大石鍬次郎 慶応2年(1866)4月1日~3日
・井上源三郎 慶応3年(1867)10月7日
・近藤勇、土方歳三(甲陽鎮撫隊として)
慶応4年(1868)3月2日休憩

新選組のスポンサー 佐藤彦五郎
11才で日野の名主役を継ぎ、24歳で近藤周助(のちの近藤勇の養父)の門に入り天然理心流を学び、わずか4年半で極意皆伝の免許を取得。
領主の下で村政をつかさどる村の代表者のこと
俳句をたしなむ風流人でもあり、克己心が強く義理人情に厚い、村民にも慕われる指導力と統率力を兼ね備えた人物でした。

上司にしたいランキング1位!(私調べ)

天然理心流の道場といったら試衛館(新宿区市ヶ谷)が有名ですが、日野宿本陣にも佐藤彦五郎が開いた道場がありました。

歳三は両親を早くに亡くし、すぐ上の姉のぶに育てられます。姉をよく慕い、嫁ぎ先の彦五郎宅をかねた日野宿に頻繁に出入りしていたそうです。
そこへ試衛館から近藤・沖田・山南敬助らが佐藤道場に出稽古にきたことで、運命の歯車が動き出すというわけです。
彦五郎は妻のぶの弟である歳三はもちろん、天然理心流の弟弟子である近藤勇とも義兄弟の契りを交わしています。
2人は浪士組参加の際や、京へ行ってからも何かと彦五郎に相談をしており、現存している手紙やお土産の品などの多さからも、彼らにとって彦五郎は扇の要であり、「頼れる兄貴」的存在だったことがうかがい知れます。
部屋に残された隊士たちの逸話
玄関の間と土方歳三

歳三がよくここで昼寝をしていたといわれています。
実際座ってみるとたしかに風通しがよく気持ちがいいので、ここで昼寝する気持ちはわかります。
ですが、この玄関の間はお偉いさんを最初に迎え入れる大事な部屋。そんなところで豪快に寝っ転がっているとは、彼の物怖じしない豪胆さたるや…
それを許していた佐藤夫妻も、末っ子である歳三のそんなふてぶてしさも含めて可愛かったのかなと想像し、微笑ましい。
式台と沖田総司

慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで敗北した新選組は、江戸へもどると勝海舟の命で「甲陽鎮撫隊」として甲府へ向かいます。
鎮撫隊には、結核を患っていた沖田も加わっていましたが、この時すでに症状は末期的でとても戦える状態ではありませんでした。
それでもこの式台で「池田屋で斬りまくったときはかなり疲れましたが、まだまだこの通りです」と、気丈に相撲の四股を踏むまねをみせたといいます。
歳三の盲目である長兄・土方為次郎もその音を聞いて「偉い偉い。その勇気で押通せッ」と鼓舞したそうです。
しかし気力で付いて来られたのもここまで。この3ヶ月後、千駄ヶ谷の植木屋に匿われ療養するも、志半ば27歳の若さでこの世をさります。
控えの間と市村鉄之助

箱館戦争終結の2ヶ月後、明治2年(1869)7月。乞食に扮し古手拭いをかぶり、蓙を簑代わりに着た、新選組隊士・市村鉄之助が佐藤家を訪れます。
歳三に命ぜられ箱館を脱出、歳三の遺品である写真などを胴締の中へ隠し、若干16歳の少年が官軍の包囲を掻い潜り、命がけで届けにきたのです。
その中には歳三直筆の、半紙の端を切った6cmほどの小切紙がありました。
「使の者の身の上頼上候 義豊」 ※義豊…歳三の諱
鉄之助はその後、約2年間この6畳の控えの間で匿われ、その間読み書き手習い、剣術を教わって過ごしたといいます。
彦五郎に遺品を渡し、涙ながらに事の結末を話す鉄之助は歳三から伝言も託されていました。
「我れ、日野佐藤兄に対し、何ひとつ恥ずるべき事なきゆえ、どうかご安心を」
形見とはもっとも大切な人に送るもの。歳三にとってそれが彦五郎であり、姉のぶだったのです。
日野宿本陣と大石鍬次郎

「人斬り鍬次郎」と呼ばれ、油小路の変で伊東甲子太郎暗殺を実行したひとりである新選組隊士・大石鍬次郎。
若いころ女性問題で出奔した鍬次郎は、大工となって大火で消失した日野宿兼彦五郎宅の建築に携わっており、その縁で天然理心流を彦五郎から学んでいました。
居間・仏間・茶の間の住居スペースの天井は鍬次郎が張ったものだそうです。

佐藤家に伝わるエピソード
男子の向い傷

彦五郎の四男・彦吉が3歳のとき、庭先でよたよた機嫌よく遊んでいたところ、前のめりに転んで石の角に眉間を打ちつけてしまいます。
その時玄関の間で昼寝をしていた歳三が、彦吉の泣き声で跳ね起き、一足飛びで駆け寄って座敷へ抱えあげ、「男の子の向い傷だ めでたいめでたい」といいながら器用に手当をしたといいます。

すばらしい瞬発力と包容力!29歳頃の土方さんがニコニコ甲斐甲斐しくお世話している光景が目に浮かぶ!
近藤勇の愛嬌

甲陽鎮撫隊として甲府へむかう道中で日野宿によった際、近藤は大名並みの長棒引き戸の駕籠で、歳三は断髪して洋装姿で馬に乗り帰着します。

故郷に錦を飾るとはまさにこのこと!
駕籠をおり、表庭を玄関へ歩いていくと式台で出迎えた彦五郎の長男・源之助をみて、ニコニコ笑いながら遠くのほうから「やあ、御丈夫ですな」と声をかけたといいます。
久しぶりの再開に彦五郎も喜び、奥の間で食事や酒を振る舞います。
先の御陵衛士による暗殺未遂によって肩を負傷した近藤は、酒盃を取った右手が上がらず「少し痛い」と顔をしかめますが、「なにこっちならこの通り」と左手でグイグイ呑んだそうです。
偉ぶらず、まっすぐで実直な近藤さんの人間性に惹かれて山南・永倉ら試衛館メンバー、のちの新選組幹部は集まってきたのだと思います。
姉弟の会話

甲府へむかう前、歳三とのぶは8畳の座敷で姉弟水入らずで話をしています。
「姉さんしばらくでした。私もあっちでは随分面白かったが、また、あぶないことがありました。マー今度は大分出世した訳だ。これから先ですか、それはどうなりますか」と云って。声を落としたが、アハハハと笑ってしまった。 聞きがき新選組|佐藤昱
この時「使いようもないから置いていく」と、縮緬仕立の立派な母衣を渡したそうです。
甲冑の背につけた幅広い布で、矢や石などから身を守る武具
鳥羽伏見の戦いで、甲冑や刀で戦う時代はおわったと感じ、早々に曲げをおとし洋装にかえた歳三には不要なものであったと同時に、次の戦で命を落とすかもしれないという覚悟から形見の品でもあったのかもしれないですね。
沖田総司の稽古
彦五郎の長男・源之助が10歳のとき、近藤と沖田が巡回稽古に訪れた際、沖田が「坊、相手をしようか」とからかい半分に竹刀を交えたといいます。
相手は麒麟児・沖田総司。どうすることも出来ず竹刀を落としてしまいますが、それでも今にも飛びかからん勢いで沖田を睨みつけます。
それを見ていた近藤が「よく出来た」と声をあげ、それから源之助は近藤の門に入ったそうです。
京時代、壬生の屯所界隈で子どもたちとよく遊んでいたという子供好きな沖田にとって、必死に食らいついてくる源之助の様子は健気で愛らしい姿だったのではないでしょうか。
日野宿本陣へのアクセス
JR中央線「日野駅」から日野宿本陣へは徒歩6分。
改札をでたら右方向へ歩き、そのまま甲州街道をずっとまっすぐ進んだところにあります。
途中右手に、天然理心流・佐藤道場門人の名をのせた額が奉納された八坂神社があります。

日野宿本陣まとめ
この日野宿は、京を震え上がらせた“新選組”としての姿ではなく、肩書の無いただの“近藤勇”“土方歳三”に戻れる、心休まる場所だったのではないでしょうか。
そして佐藤彦五郎がいなければ、あの動乱の幕末を駆け抜けた新選組は存在しなかったかもしれません。
彼らに大きな影響をあたえ、支え続けた日野宿本陣。150余年前の彼らと同じ空間で畳に座し、しばし思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
東京都日野市日野本町2-15-9
JR中央線「日野駅」から徒歩6分
大人(高校生以上)200円|小人(小中学生)50円
9:30~17:00(入館は16:30まで) 月曜休館