第三回 石田散薬「村順帳」調査報告会レポ【土方歳三資料館】

石田散薬村順帳調査報告会

新選組・土方歳三の生家である「土方歳三資料館」で、9/18(日)に行われた「第三回 石田散薬村順帳調査報告会」

完全予約制で、「石田散薬製造体験会」とおなじく申込みが殺到するため、狭き門をくぐり抜けた者のみが参加できる貴重なイベント。

申込み開始5分前から秒針をみなからスマホを握りしめ、電光石火のごとく必要事項を打ち込み、奇跡的に30名の枠にはいることに成功しました!(なんと1分で完売)

有志の方々が長年調査されてきた貴重なお話を聞くことができたので、その様子と一緒にレポートしていきます!

土方歳三資料館は2022年11月末をもって長期休館にはいります。11月末までの開館日時やその他関連情報は、土方歳三資料館公式Twitterをご覧ください。

石田散薬の歴史や歳三×石田散薬にまつわるエピソードをまとめた記事はこちら▼

村順帳とは

骨継ぎ、打ち身などに効いたとされ、新選組で常備薬となっていた土方家秘伝薬の石田散薬。

その石田散薬の得意先(=卸先)が記載されている名簿「村順帳」であり、土方歳三資料館に、石田散薬作りの道具や歳三が使用していた「山丸印」の薬箱とともに展示されています。

歳三の兄・喜六の長男・隼人(作助)によって、明治16年(1883)に作成されたものですが、明治にはいって以降、大幅な販路の縮小、拡大が確認できないため、歳三が行商していた幕末期もほぼ同じ得意先であったのではないかと考えられています。

・地名
・薬の量
・屋号や人名…など

記載された僅かな情報を頼りに、日野宿本陣文書検討会の方々が、石田散薬や土方歳三の新たな情報を求め、調査・分析し、「村順帳」記載の子孫の家を探し訪ねていらっしゃいます。

いざ土方歳三資料館へ

万願寺駅

新宿から電車を乗り継ぎ40分、最寄りの多摩モノレール「万願寺」駅に到着。

はじめて訪れてから早10年…5度目の土方さん宅訪問です。

土方歳三資料館|入り口

入り口の歳三像の横には、曼珠沙華が咲いていました。

この日は台風の影響で、バケツを引っくり返したようなゲリラ豪雨が振ったとおもいきや、ぴたっと止むを繰り返す悪天候でしたが、定刻前に参加者はほぼ着席。

椅子の上には、調査資料の数々と薬包紙、そして薬研で細かくする前の石田散薬。

村順調調査報告会

おひとりさまでの参加がほとんどで、お話を伺いながら持参したノートに熱心に書き込んでいらっしゃいました。

ここにいるみんな土方さんファンなんだと思うと、それだけでワクワク♪

館内での写真撮影、録音は禁止です!

お話の最後に石田散薬の包み方を教えていただき、報告会終了後は館内をみる時間も設けてくださったので、ゆっくり展示をみることができました。

石田散薬

「村順帳」調査

調査をはじめて17年。2022年9月時点で435軒中、半分を超える235軒が判明しています。

得意先は名主なぬしや村方役宅、そして荒物屋(=雑貨屋)や旅籠屋が多くを占めています。

昔の旅には山越えがつきもの。筋肉痛やマムシなどに噛まれた際の治療薬として、旅人向けにそういったところに卸していたのかもしれません。

石田散薬の販路

都内での取引先は、日野市が一番多いのかとおもいきや、お隣の八王子市がダントツ。

その販路は、埼玉県所沢市、神奈川県厚木市、山梨県大月市と広範囲にわたっていて、甲州街道や東京赤坂と神奈川大山を結ぶ大山街道など、街道に沿って販売していたようです。

また、天然理心流「江戸派」の近藤勇と「多摩派」の増田蔵六・松崎和多五郎の門人宅には、ともに販売先があり、石田散薬の販路との重なりがみられます。

増田蔵六とは

天然理心流2代目・近藤三助門下の中で実力随一といわれ、千人町(八王子)に道場を開き、門人は1000人超え。明治4年、86歳で死去。

つづらの上に剣術道具をのせて行商に行ったといわれている歳三。剣術・柔術・棍棒術を伝授する増田蔵六道場で、行商をかねて三術の稽古をしていた可能性が考えられます。

石田散薬取引先の今

有志の方々の一軒一軒訪ね歩くという、地道であり丁寧な調査によって、150年を経て繋がった縁や新たな発見もみつかっています。

村順帳記載の旧家を訪れた際は、「新選組が甲陽鎮撫隊として甲州に向かうときに、土方歳三が家に来た」と祖先から伝わっていること、歳三の長兄・為次郎の雅号「石翠」とかかれた札が残されているというお話を聞けたそうです。

ほかにも興味深い取引先がいくつもありますが、その中で現在も営業されている歳三や新選組にゆかりのある場所をピックアップ!

酒屋

江戸期の石田散薬のチラシには江戸取次店(=薬を卸していた取引店)が記載されています。

チラシに破損があり、判読できるのは9件だけですが、そのなかの「四谷新町大和屋清兵衛」

ここは歳三の祖父・源内(雅号・三月亭石巴)の弟が養子にはいっており、酒屋を営んでいました。

内藤新宿千駄ヶ谷絵図
出典:〔江戸切絵図〕. 内藤新宿千駄ヶ谷絵図
四ツ谷絵図
出典:〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図

現在の新宿区四谷4丁目交差点あたりは、ほかにも土方家の親戚宅があり、石田散薬の販売先でもあったため、歳三も行商で訪れていたことでしょう。

「大和屋」は、現在も甲州街道沿いで「大和屋酒店」の名で営業しています。

ビジネスホテル

東京都府中市にある大國魂神社のそばで、旅籠屋はたごやを営んでいた「松本屋甚五右衛門」

大國魂神社(別名:六所宮)といえば、文久元年(1861)に近藤勇の天然理心流四代目襲名披露の野試合がおこなわれた場所です。

このとき集合場所となったのが、門人であった「松本屋」でした。

本陣総大将 近藤勇
太鼓    沖田総司
鉦(鐘)役  井上源三郎
赤軍▶土方歳三、山南敬助ら36人
白軍▶佐藤彦五郎、井上松五郎(源三郎の兄)ら36人

2対1で白軍の勝利!大河ドラマ「新選組!」ではコミカルに描かれています♪

試合がおわると血気盛んな門人らは、府中宿場において夜通しどんちゃん騒ぎをしたそうで、小野路村の名主で近藤・土方の後援者であった小島鹿之助はこう残しています。

少こしく狂態狼藉にも及んだとの取り沙汰を、鹿之介翁が耳にして「欺かる襲家披露の功業は青史も留り千百歳其名々たる赫々たるべきに誠に口惜しき事に御座候」と一筆彦五郎へ寄せて来た。
聞きがき新選組|佐藤昱

「松本屋」は、現在もビジネスホテル「HOTEL 松本屋 1725」として営業しています。

新選組ゆかりの地めぐりの際は、彼らが大騒ぎした宿のひとつだったかもしれない「松本屋」に泊まってみてはいかがでしょうか♪

おせんべい屋

下連雀(東京都三鷹)の名主で醤油醸造業を営んでいた「山岸屋萬助」

16歳のとき京都で新選組へ入隊し、のちに土方附属として市村鉄之助と箱館を脱出したとされる渡辺市造の生家です。

脱出に成功した市造でしたが、新政府からみれば新選組隊士は反逆者。みつかれば処分は免れません。

実家に迷惑がかかるからと三鷹には戻らず、辿り着いた川越に住み、そこで結婚し子供をさずかり、生涯をおえています。

三鷹市牟礼には、市造の生家が茅葺のまま保存されているそうです

明治35年(1902)ごろ、40年ぶりに三鷹の実家を訪れた市造は、渡辺家を継いでいた妹婿夫婦の娘さんを自分の長男のお嫁さんにと、川越に連れてかえってしまいます。

そのお嫁さんが内職ではじめた“せんべい作り”。現在もご子孫が川越の“時の鐘”ちかくで「大玉や」というお煎餅屋を経営しています。

報告会では、市造の子孫の方々がゲストでいらっしゃり、美味しいおせんべいのお土産を持ってきてくださいました。

大玉やのおせんべい

醤油味とソース味。袋を開けた瞬間、甘香ばしい良い香り!

ある日突然「高幡不動尊に行かなくては」と衝動に駆られ、はじめて訪れた日が偶然土方さんの命日だったそうで、不思議な縁もあるものだと後日土方歳三資料館を訪れたとのこと。

歳三さんのおかげで「今」があることをお話くださり、グッと胸にくるものがありました。

素敵な巡り合せですよね。

まとめ

残念ながら石田散薬を持って歳三が売りに来たと伝わる販売先はまだ見つかっていません。

明治41年(1908)にかかれた「石田散薬各地請売り人帳」の取引先には、福島県南会津の記載もあり、歳三が戊辰戦争で訪れた縁でのことなのかもしれない。

“今”調べないと埋もれてしまう歴史がいくつもあるなか、こうやって掬い上げて下さる方々がいるからこそ、風化せずに語り継がれていく。感謝の気持ちと今後の調査でまた素敵なご縁が繋がることを願ってやまない。

土方歳三資料館
 東京都日野市石田2-1-3
 多摩モノレール「万願寺駅」から徒歩4分
 大人500円|小中学生300円
 毎月第1・第3日曜 12:00~16:00
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