好きな歴史上の人物につねに上位ランクインの坂本龍馬。その師匠である勝海舟は、「江戸無血開城の立役者」ということしか知らない人も多いのではないでしょうか。
幕府のお硬いイメージとは裏腹に、司馬遼太郎「竜馬がゆく」の言葉をかりるなら、『歯切れのいい頭脳』をもちつつも、『少年のような目をした』あどけなさといたずらっ子さもあった海舟。
彼が著した「氷川清話」の龍馬や西郷らの人物評論や時局批判は、歯に衣着せぬ物言いで小気味よく、さすがは江戸っ子言い回しが面白い!
今回は江戸生まれ江戸育ちがゆえ、日常に溶け込んでいる都内にある海舟の足跡を、彼の語りとともに時系列順に巡っていきましょう。
誕生~少年期
麟太郎誕生「生誕の地碑」

文政6年(1823)年1月30日、父・小吉の実家である小谷家の邸内で誕生。幼名は麟太郎。
現在両国公園になっているこの場所でうまれ、7歳まで過ごしています。

ひつじうまれの龍馬よりひと回り(12歳)年上!
勝家は古参の幕臣でしたが、位は低く無役だったことに加え、父・小吉が世話好きで気様気儘に暮らして家計をかえりみなかったため、かなりの貧乏暮らしでした。
そんな小吉は海舟16歳のときに、隠居し、家督を譲っています。

親は隠居して腰ぬけであったから、実に困窮した

今は(麟太郎のおかげで)楽隠居になった。しかし麟太郎ではなくおれのような子供ができたらこの楽はできまいぜ
両国公園の案内にも「鳶が鷹を生んだ」とデカデカとかいてある始末。

ただ、学はなく掴みどころのない気楽者ではあったものの、剣術だけはできたようで、海舟を幕末の三剣士のひとり、島田虎之助のところへ連れていき修行させています。
剣客のイメージはない海舟ですが、19歳で直心影流の免許皆伝をしていて武芸においても達者でした。

金もないのに通人で、根っからの世話ずきで、しかも喧嘩に眼がない。御直参のくせに町の無頼の徒とつきあい「先生、先生」とたてられてよろこんでいた
海舟はこう語っていますが、彼も江戸の火消しや博徒とも仲がよかったり、愛人を何人もつくったりと、その悠々自適さは父親譲りのようでブーメランな気がしてならない。
東京都墨田区両国4-25-3
JR総武線「両国駅」より徒歩6分
餅を投げ捨てた「両国橋」

年の暮れ、どこも松飾りの用意をしているのに貧乏だった勝家は餅をつくお金もありませんでした。
しかし親戚が「餅をやるから取りにこい」といい海舟が出向きますが、帰りの両国橋あたりで包んでいた風呂敷が破れ、餅が地面に落ちてしまう。
日は暮れあたりは真っ暗。

二ツ三ツは拾ったが、あまり忌々しかったものだから、これも橋の上から川の中へ投げ込んで、帰って来たことがあったっけ
今も海舟の投げ込んだ餅が沈んでいるかもしれない…
東京都墨田区両国1丁目
JR総武線「両国駅」より徒歩7分
ビールの麓の勝海舟像

浅草方面から眺めるこの景色、テレビ番組などでみたことがあるかもしれません。
じつは、ここにひっそりと勝先生いらっしゃるんです。
吾妻橋を渡ってすぐ、墨田区役所前うるおい広場にある「勝海舟像」。

「新しい日本を思い描き、アメリカを目指そう」とする瞬間を捉えたものとのことですが、指差す方向はアメリカではありません笑

ビールタワーの麓ということで余談ですが、海舟自身は下戸でお酒は飲まなかったとか。西郷隆盛も下戸、そして海舟とおなじく無類の甘党だったそうです。
東京都墨田区吾妻橋1-23
東武伊勢崎線・都営浅草線・銀座線「浅草駅」より徒歩3分
~壮年期
海舟23歳の頃、福岡藩黒田家の屋敷に住んでいた永井青崖から蘭学を学ぶため、墨田区の家から赤坂の屋敷へ通っていました。
その縁あってか結婚後は、赤坂田町(現・赤坂3-13-2)へ引っ越し、赤坂の地を愛した海舟は、生涯で3か所移り住んでいます。

この頃は、おれは寒中でも稽古着と袴ばかりで、寒いなどとは決して言わなかったよ
生活に余裕ができてきたのは海舟が30歳ごろだったため、当時の海舟の蘭学勉強法が、じつに合理的でさすがといわざるを得ない。
オランダ語の辞書は大変高価で、貧乏暮らしの海舟には手の出せるものではありませんでした。
そこで海舟が考えたのが、「効率よく知識と財を同時に得られる方法」。
頼み込んで借りてきた58巻にもなる辞書を、毎日寝る間を惜しんで熱心に書き写し、約1年かけて2部完成させます。
1部は自分用、もう1部は売ってお金に。そして2冊写本した海舟の頭の中にはすでに本の内容がはいっているというわけです。
華々しい功績が目立つ海舟ですが、不遇の時代も長く、病の母や妹たちの面倒もみながら、日々の暮らしにも事欠くありさまという状況にも関わらず「物は考えよう」といった、機転と熱意、根気を持ち合わせていたからこそ、のちに大義を成すことができたのでしょう。
そしてアメリカ留学を経た海舟は、幕府の海軍ではなく「日本の海軍」を設立するために、奔走することとなります。
勝海舟邸跡

赤坂田町の次に移り住んだのが、安政6年(1859)~明治元年(1868)まで住んだ、この赤坂本氷川坂下。現在はマンションになっています。

咸臨丸で渡米したのも、龍馬が訪ねてきたのも、江戸無血開城の交渉に向かったのもここからです。
坂本龍馬。彼れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いてな、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だったよ。 『氷川清話』 -ニ、人物評論-より
当所居住中の10年間が、海舟にとって最も政治的に華々しく活躍した時期になります。
東京都港区赤坂6-10-41
千代田線「赤坂駅」から徒歩5分
赤坂氷川神社

本氷川坂下邸からほど近くにある、 創建1000年以上の歴史をもつ「赤坂氷川神社」。
8代将軍・徳川吉宗の時代に現在地に移転以降、数々の震災、空襲をまぬがれ、御社殿は創建当時の姿を残しており、大変貴重な建造物となっています。
ここには赤坂を愛した勝海舟の掛け軸をはじめ、高橋泥舟・山岡鉄舟いわゆる「幕末三舟」がそれぞれ「氷川神社」と記した掛け軸が所蔵されています。

書体が三者三様で全く違い、性格と生き方が文字に表れているようで興味深い

氷川神社境内にあるのが、古呂故稲荷・地頭稲荷、本氷川稲荷、玉川稲荷の4社を合祀した「四合稲荷」。
「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、明治31年(1898)海舟が名付けたものだといいます。
江戸無血開城

実に驚いた人物で、どれだけ知略があるのか底知れない英雄肌の人物

天下の大事を担うのは西郷ではないかと、恐れたヨ
と、互いを評し合った2人が、江戸の命運をかけ話し合いを重ねた「江戸無血開城」。
この時海舟46歳、西郷41歳。年齢だけで言うと現代の中間管理職である課長の手に、国・命すべての未来がかかっていたのです。
薩摩藩蔵屋敷跡 会見の地

JR田町駅から徒歩3分、現在はビル群に囲まれたこの場所で、江戸100万市民の命を救った江戸無血開城を取り決めた会談が行われました。

あの時の談判は、実に骨だったヨ。官軍に西郷が居なければ、談はとても纏まらなかっただろうヨ
ここから徒歩5分のところには、薩摩藩が幕府を挑発し、戊辰戦争のきっかけとなった、薩摩藩邸焼討事件の現場である「薩摩藩三田藩邸」があります。

薩摩藩の江戸藩邸は、上屋敷(三田)・中屋敷(内幸町)・下屋敷(高輪)、そして蔵屋敷(田町)などがあり、無血開城の会談は慶応4年3月13日に下屋敷、14日に蔵屋敷で行われたといわれています。※諸説あり
東京都港区芝5-33
JR「田町駅」から徒歩3分
薩摩藩三田藩邸
東京都港区芝5-7-1
都営三田線「三田駅」から徒歩3分
池上本門寺

2代将軍・徳川秀忠が建立した関東最古の五重塔、当時の原型を残す加藤清正が寄進した96段の石段など歴史深い「池上本門寺」。
この池上本門寺には、西郷隆盛率いる新政府軍の本陣が置かれていました。
その奥庭である「松涛園」で、慶応4年4月9日と10日に西郷と海舟は、江戸城受け渡しの最終調整を行っていたといわれています。
西郷隆盛の甥・従徳の筆による両雄会見碑が建っています。
※一般公開期間以外に、入園は出来ません
「コレデオシマイ」
海舟は江戸城受け渡し後、徳川慶喜とともに静岡に移住。
晩年は、徳川家や西南戦争で敗れた西郷隆盛の名誉の回復、追悼のため活動しています。
台湾問題や朝鮮出兵について意見することはあれど、政治に深く関わることはありませんでした。

日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰わないじゃないか
洗足池

中原街道経由で池上本門寺に向かう途中に、この池のそばで休息をとったといわれています。
世の中が移りゆくなか、変わらぬ江戸の風景を残す洗足池を気に入り、明治24年(1891)海舟はこの地の土地を購入。
別荘「洗足軒」を構え、池へ行っては釣り糸を垂らして、子どもたちと一緒に楽しんでいたようです。
酒に弱かった海舟ですが、最期は風呂上がりにブランデーをのんで倒れ、その2日後に息を引き取ります。
最期は「コレデオシマイ」と言い切り、波乱万丈の人生に幕を閉じたのでした。

彼の遺言どおり、洗足池の畔には自身でデザインしたお墓が今も建っています。
東京都大田区南千束2-14-5
東急池上線「洗足池駅」から徒歩2分
勝海舟記念館

海舟のお墓の裏手にあるのが、書簡や海舟が用いた航海用具、愛用の印章などが展示された「勝海舟記念館」。
欧文で書かれた長崎海軍伝習所時代の海舟直筆ノートは、図形や数式がびっしりと書かれていて圧巻です。

でも数学が苦手で、船酔いになりやすかったとか
渡米中の咸臨丸船内をCG映像で体験できる「時の部屋」は、続きが気になる!と感じるほど高クオリティ。
一生懸命では根気が続かん。世路の嫌悪観来って坦々たる大道のごとくなる練磨と余裕とが肝要だ。 『氷川清話』 -七、世人百態-より
海舟の考えや人生観から、悩める現代人が今を生き抜くヒントをみつけることが出来るかもしれない。
東京都大田区南千束2-3-1
池上線「洗足池」駅から徒歩5分
一般300円|小中学生100円|高齢者(65歳以上)240円
10:00~18:00(入館は17:30まで) 月曜 定休日
https://www.city.ota.tokyo.jp/
勝海舟邸跡と師弟像

明治5年(1872)50歳の時、静岡から東京に戻って住んだ屋敷は、現在老人ホーム(旧赤坂小学校)になっています。

赤坂3か所目の引越し先!
ここは幕末期、約2500坪もの広さの旧幕臣・柴田七九郎の屋敷がありました。
海舟はその屋敷を500両で購入し、ここで明治32年に77歳で亡くなるまで、この記事内で引用している「氷川清話」などをかいて暮らしたそうです。

この屋敷には、慶応3年(1867)11月15日に暗殺された龍馬は訪れていませんが、勝海舟と坂本龍馬の師弟像、各地に銅像は数あれど1,2を争うかっこよさだと思っています。

筋骨隆々とした腕、海のかなたに広がる世界を見据える精悍な顔つき。かっこいい…
像をよくみると海舟の刀の鍔には、下げ緒(刀の鞘を帯に巻くための紐)を絡めて刀をぬけないようになっています。剣術の達人でありながら、生涯人を斬ることはなかった海舟の対話で物事を決着させるという心がまえを表しているそうです。
東京都港区赤坂6-7-17
千代田線「赤坂駅」から徒歩5分
御用達の老舗
無類の甘党で屋敷には「お菓子部屋」をつくっていた海舟。
ケーキやチョコレート、パン、アイスクリームなどが好きだったそうです。
パンは木村屋のあんぱんを好んで食べていたとか。
勝家に伝わる話によると、海舟の息子のクララというドイツ人の奥さんが、ある日海舟にパンを焼いて持っていったところ、海舟は不在。
家族はすっかりそれを食べてしまいます。
ところが海舟が急に帰ってきたため、家族は慌ててクララに「もう少し届けてもらえないか」と手紙を送ったそうです。
帰ってきた!どうしよう!と大騒ぎしている様子を想像すると面白く、家族をそうさせるほどとは、食べそこねて機嫌を悪くした過去でもあるんでしょうか。
壺屋のもなか

海舟が愛した「壺屋總本店」の最中。
壺屋の最中は、口の中で皮がくっつくことがないサクサク食感。ここの最中を食べたら他のは食べられないといっても過言ではない。
餡子たっぷりの壺型最中は、あんこ好きをうならせること間違いなし!
東京都文京区本郷3-42-8
丸の内線「本郷三丁目」駅より徒歩5分、大江戸線「本郷三丁目」駅より徒歩4分、千代田線「湯島」駅より徒歩5分
平日祝 9:00~16:50 日曜定休日
大坂屋砂場のそば

山岡鉄舟・高橋泥舟もご贔屓にしていた虎ノ門にある「大阪屋砂場」。
明治5年(1872)に開業、建物は築100年の老舗ですが、値段はリーズナブル。
オフィス街に位置するため開店直後から列ができるほど、今も昔も愛されているお店です。
東京都港区虎ノ門1-10-6
銀座線「虎ノ門」駅1番出口より徒歩3分
月火11:00~20:00 水木金11:00~21:30 土11:00~14:00頃
定休日 日、第3土曜、祝日
https://www.toranomon-sunaba.com/