【村橋久成】サッポロビールをつくった薩摩のサムライ

村橋久成|サッポロビール

薩摩藩士・村橋久成むらはしひさなり

漫画・ゴールデンカムイを読んで、初めて名前を知った方もいるのではないでしょうか。

「知ってるか?札幌のビール工場を作った村橋久成っていうお侍さんはな…箱館戦争で土方歳三と戦った新政府軍の軍監だった」
牛山辰馬|ゴールデンカムイ

なぜ、鹿児島出身の彼が北海道という遠い地でビールを作ることになったのか。激動の時代の波に揉まれながら生きた、村橋の最期とは。

彼の波乱万丈な人生を辿っていきます。

村橋久成とは

仙巌園と桜島
仙巌園 © K.P.V.B

天保13年(1842)、代々の薩摩藩主・島津家の一門、加治木島津家の分家にあたる村橋家の長男としてうまれます。

家格は「寄合並」。将来は家臣のなかで最高地位の「家老」となる超エリートです。

加治木島津家、8代藩主・島津重豪しげひではインテリ&西洋文化に熱心で、薩摩藩の近代化の礎を築いた人物。望遠鏡などを置いて天文観測や暦の作成を行う施設「天文館」を建てさせおり、これが鹿児島一の繁華街「天文館」の由来となっています。

父・久柄が琉球に赴任する途中で船が難破。久柄は行方不明となり、6歳の村橋久成が家督を相続することになります。

村橋が11歳のとき、突如黒船で侵入したペリーが開国を迫ります。幕府は追い詰められ、日米和親条約により下田・箱館を開港。200年以上続く鎖国時代は終わりをつげるのです。

幕府の及び腰に全国で攘夷(外敵を撃ち払う)運動が激化するなか、「外の文明を学び、取り入れ、世界に対抗できる新しい国作りをするべきではないか」という意識も芽生えはじめます。

薩摩藩の近代化へのあゆみは加速し、その波に村橋も飲み込まれていくことになります。

サツマ・スチューデント

若き薩摩の群像
鹿児島中央駅前「若き薩摩の群像」 © K.P.V.B

慶応元年(1865)、村橋は突如イギリス留学生に抜擢されます。

開国派である藩主・島津斉彬が生前発案していた、欧米先進国への留学生派遣を、薩摩藩士・五代才助(友厚)と協力者の英国商人、トーマス・グラバーが実行に移したのです。

当初決まっていた留学生の中から欠員がでたため、それを補うべく急きょ選ばれたのが23歳の村橋久成でした。

海外渡航は国禁。見つかれば死罪も免れないなか、留学生15人と引率の五代友厚ら4人は薩摩半島羽島浦からグラバーが手配した船で命がけの航海へ旅立ちます。

薩摩藩英国留学生記念館
薩摩藩英国留学生記念館 © K.P.V.B

留学生らが密航までの2ヶ月間を過ごし、船出をした羽島には彼らの記念館があります

薩摩藩英国留学生記念館
 鹿児島県いちき串木野市羽島4930番地
 大人300円|小人200円
 10:00~17:00 火曜休館
 http://ssmuseum.jp

近代文明との出会い

2ヶ月間の航海のすえ、ロンドンに辿り着いた一行。

村橋は留学先のロンドン大学で、陸軍学術を学び、この知識がのちの箱館戦争で役立つことになります。

一行は農業都市・ベッドフォードの鉄工所やハワード農園の見学に出かけており、そこで見たイギリスの世界最先端の近代農業の姿に圧倒されます。

人馬による農作しかしらない彼らの舞い上がりっぷりが、現地の新聞『タイムズ』に掲載されています。

…最新式蒸気鋤の機関が動き出すと、およそ15名ほどの日本人たちは、地歩を占められる所ならどこへでも殺到して行った。どれほど大喜びで彼らがこの工場の広い敷地を縦横に動きまわったか、それはひどく楽しい光景であった。…

留学中にビールも経験したことでしょう。この時の出会いが帰国後、開拓使として北海道の近代農業推進のために尽力する村橋の原点となるのです。

帰国

とはいえ急きょ留学生に抜擢され、外国への憧憬や心づもりもなかったであろう村橋は、カルチャーショックからノイローゼとなり「留学の続行が危険な状態」となります。

そして慶応2年(1866)わずか1年で、他の留学生たちより一足先に、同行者の松木弘安と帰国するのでした。

その帰途、亀山社中(のちの海援隊)で坂本龍馬の右腕として働いていた紀州藩士・陸奥陽之助(宗光)と同船しています。

箱館戦争のキーマン

五稜郭

留学中、日本では目まぐるしく情勢が変化していました。慶応4(1868)鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争がはじまります。

村橋は加治木大砲隊長として250名の部下を率いて鹿児島から出軍し、東北を転戦。その後、新政府陸軍の軍監に任命されると、箱館・二股口において土方歳三率いる旧幕府軍と交戦します。

二股口での防衛戦の激しさを新選組隊士・島田魁は後にこう記しています。

「蝦夷陸軍の戦い最も烈しき事、これに過ぐるなし」
(島田魁日記

陸軍総参謀・黒田清隆「榎本武揚はこれからの日本に必要な人材である」と考え、使いをたてて榎本に降伏を勧告します。この時、交渉にあたったのが村橋です。

交渉相手を赤十字を掲げ、中立の立場である箱館病院長・高松凌雲としたのも、留学経験があり赤十字の何たるかを知っている村橋の考えであったと思われます。

徹底抗戦を選んだ榎本軍でしたが、新選組ら旧幕軍兵が籠城する「弁天台場」、次いで「千代ヶ岱陣屋」を新政府軍に包囲され降伏。

明治2年(1869)5月18日に榎本軍は五稜郭を明け渡し、箱館戦争および戊辰戦争は終結を迎えるのです。

開拓使として

戦後、開拓使が設置され、「蝦夷地」から「北海道」と改称されます。

開拓使とは、北海道の開拓・警備・行政の事務を総轄した行政機関のこと

開拓使の最高責任者となった黒田清隆は、戊辰戦争で生死をともにした同郷人たちを開拓使の重要ポストに置くことで事業を円滑に進められると考え、留学経験のある村橋をはじめ続々と登用していきます。

この黒田の方針が遠く離れた北海道の地で「創設者」や「初代○○」といった重要職に鹿児島人が多い所以ともいえるでしょう。

このころ北海道の鉱物地質調査をしていたお雇い外国人が北海道各地で自生するホップ(ビールの原料)を発見し、「ホップ栽培におけるビール醸造は国内用としても貿易品としても有益である」と提言します。

北海道開拓においてビール醸造は最重要プロジェクトとなり、村橋はこのプロジェクトリーダーとして醸造所建設の責任者に任ぜられるのです。

異議申し立て

当初「外来の動植物は一度東京で試験栽培をし、それから北海道各地に移植する」という開拓使の方針から、醸造所の建設地は札幌ではなく、東京・青山の官園の敷地内でした。

官園とは、開拓使が北海道と東京に設置した、農業に関する試験場のこと

これは開拓使の事業を中央にアピールするための意図を含んでいました。しかしそんなパフォーマンスに村橋は興味ありません。非効率である、と建設地変更をせまる稟議書を提出します。

「…北海道には建設用の木材も豊富にあり、気候もビール製造に適していて、氷や雪がたくさんあるのも都合がいい。最初から実地に建設したほうが移設や再建の出費を省くことができる。ついては、来春から北海道に建設することにしたい。建設地については、水利や運送、気温などビール醸造に適する場所を選ぶことが重要だ。どうか評議のうえ、至急、指令をくだされるように」

この村橋の提言によって、国家機関である開拓使の決定をくつがえし、札幌への麦酒醸造所建設を実現させたのです。

もし東京に開業していたら、風土の違いから製法の変更を余儀なくされ、日本のビール産業は大きく遅れていたかもしれません。

始動

明治8年(1875)、ドイツ最大手のベルリンビール醸造会社でビールのノウハウを学んだ28歳の中川清兵衛なかがわせいべえを迎え入れ、ビール醸造が開始されます。

中川に採用辞令を手渡した橋村の「採用にあたっての確認書」が残されています。

「契約途中で退職するのはまかりならない」

高い給金を払って雇うからには成功に向けて邁進せよ。一歩も引くことは許されない、という村橋の熱意が文面から伝わってきます。

明治9年(1876)9月に醸造所が開業。

完成したビールを東京に運ぶための、ビールを詰める瓶の確保、輸送手段・冷蔵用の氷の手配、くわえてドイツから取り寄せた酵母の品質がよくないと知らせをうけ、村橋は酵母入手のために奔走するのです。

醸造所完成前、視察に訪れた伊藤博文ら首脳陣のなかには、イギリスから帰国する際に付き添ってくれた松木弘安と同船した陸奥宗光の姿もありました。彼らと10年ぶりの再会を果たします。

ビールの受け入れ体制を整えるために、東京に転任していた村橋のもとに「冷製札幌麦酒」と名づけられたビールが到着したのは、明治10年(1877)6月のことでした。

黒田の指示で三条実美をはじめ政府首脳にビールが届けられます。

しかし内務卿・大久保利通に送られたビール12本すべて輸送中コルクが抜け、空になっていたというハプニングにより黒田から「村橋へ厳達」と名指しで注意を受ける事態となりますが、ビールの品質については各所で好評を博します。

同9月に商品化されたビールには村橋らが作成した、現在も続く開拓使のシンボルマーク「五稜星」が描かれたラベルが貼られていました。


明治14年に東京・上野で開かれた内国勧業博覧会で初出品された「冷製札幌麦酒」は、有功賞を受賞。宣伝効果もあって売り切れが続出するほどの評判となります。

そんななか、村橋は突然辞表をだし、開拓使を辞めるのです。

放浪のすえ行き倒れの死

開拓使による北海道開拓事業は、明治5年から10ヵ年計画ですすめられていました。明治14年はその10年目にあたります。

黒田は「開拓はまだ不十分」として事業の継続を主張しますが、西南戦争をさかいに財政難に追い込まれた政府は、開拓使の廃止を決定します。

これから芽吹いていく新しい芽をなぜ放棄するのか。

イギリスでみたあの輝かしい近代農業を、自らの手でこの北海道の地に実現できるかもしれないという夢を摘み取られた村橋は、失望と怒りに打ちひしがれます。

辞職後は家族も故郷も捨て、雲水僧となり各地を行脚放浪。村橋は歴史の表舞台から姿を消します。


11年後の明治25年(1892)、神戸の路上で行き倒れている男を巡視中の警官が発見。

男は朦朧とする意識の中「大隅国日当山三十三番地、川畑栄蔵」と名乗ります。

身元確認をすることを伝えると「村橋久成」であると本名をいったといいます。そして医師の介護をうけるも、発見から3日後、息を引き取ったのです。享年50歳。

旧友たちによる弔い

村橋の死は『神戸又新日報』に掲載された死亡広告から、当時の新聞『日本』に「英士の末路」という記事が載ったことで、開拓使時代の旧友たちに知らされることとなるのです。

記事が掲載された日のうちに、電光石火のごとく電信が飛び交います。葬儀をとりはからうため、黒田清隆をはじめ旧友たちがやり取りした村橋を悼む手紙が今も多く残されています。

葬儀の際の「香典料人名帳」には逓信大臣・黒田清隆、のちの第七師団初代団長・永山武四郎ながやまたけしろう、アメリカ留学を経験し貴族院議員となった湯地定基ゆちさだもと、愛知県知事・時任為基ときとうためもとら同郷の元開拓使幹部の名前が並びます。

ここには外務大臣となった陸奥宗光の名前もありました。

香典を取りまとめ、神戸へ村橋の遺体をひきとりに行ったのは元開拓使・加納通広かのうみちひろです。彼は元新選組でのちに離隊し御陵衛士となり、近藤暗殺未遂を実行したひとり。板橋処刑場で近藤が偽名を名乗り投降した際、「新選組・近藤勇である」と暴いたのが加納でした。

香典をおくった者の中には、同じく元新選組で加納の同志・阿部隆明あべたかあきの名前もあります。

彼らの手によって、青山霊園で葬儀が開かれ、墓碑が建てられます。村橋は現在も旧友たちが多く眠る青山霊園でともに眠っています。

村橋久成まとめ

サッポロビール

「エリート藩人であるがゆえの古く堅実的な考え方」と「イギリス留学で学んだ柔軟で合理的な考え方」、村橋は両方を知っています。

移り変わりの激しい幕末、維新でかつて部下だった者たちが武功をあげて昇進していく姿をみたとき、近代国家建設の一翼を担ったとき、「どう生きるべきか」と内に秘めた葛藤と常に戦っていたことでしょう。

権力やエゴイズムが渦巻くなか、ただ実直に北海道の近代化に情熱を燃やした村橋。苦悩と夢の狭間で彼が戦って、生き抜いた証がこのサッポロビールなのです。

現在商品に記載されている【SINCE 1876】は醸造所が完成した年。村橋久成の【夢のはじまり】が刻まれています。

サッポロビール

サッポロビール博物館
サッポロビール博物館|サッポロビールHPより
サッポロビール博物館
 北海道札幌市東区北7条東9丁目1-1
 自由見学(プレミアムツアーは大人500円|中学生~20歳未満300円)
 11:00~18:00 月曜休館
 https://www.sapporobeer.jp
タイトルとURLをコピーしました