【如来堂の戦い】新選組万事休す!隊士の行方は…殉難の地への行き方【会津】

会津|如来堂の戦い

鶴ヶ城から直線距離にして約4km北西に位置する如来堂。

北へ向かう土方歳三らと袂を別ち、会津に留まった山口次郎こと斎藤一ら13人はこの如来堂で新政府軍の攻撃をうけます。

いったい何があったのか。そして全員打ち死にしたとおもわれた隊士の行方とは…。如来堂へのアクセス方法もあわせてご案内します。

如来堂の戦いとは

如来堂

慶応4年(1868)8月21日、大鳥圭介率いる伝習隊や会津藩兵らとともに母成峠の守備についた新選組ですが、約800人vs数千人という圧倒的な兵力の差で新政府軍に惨敗します。

足を負傷していた土方の代わりに隊長を務めたのは、25歳の斎藤一、副長役は安富才助でした

敗走した新選組は猪苗代城で土方歳三と合流、会津藩の軍事方との間で軍議が行われます。

このあと土方は同盟の庄内藩へ援軍を依頼するため北へ、会津藩の恩義に報いんと残留を希望した斎藤一ら十数名はここで袂を分かつこととなります。

9月4日、城下の北西の高久村方面(如来堂よりやや北)の守備についていた旧幕歩兵指図役頭取の古屋佐久左衛門ふるやさくざえもんが率いる衝鋒隊は、会津藩より小荒井村(喜多方市松山町村松)への援軍派遣を要請されます。

如来堂村守備から二小隊が出陣することとなり、手薄となった如来堂に着陣したのが斎藤一ら13人の隊士と10人ほどの歩兵です。

会津略図

時を同じくして、日光口から新政府軍の援軍が会津平野に迫っていました。

在陣の新政府軍は兵力の増強を確信し、片門で舟渡の会津軍に阻まれ、只見川を渡りかねている越後口の新政府軍へ応援部隊を派遣します。

この隊は5日早朝に会津若松を出発。片門へむかう道中で新選組が守備する如来堂に不審な影を発見し、戦闘となります。

数にして旧幕兵約20人VS新政府軍500人といわれています。濃霧によって敵が近づいてくるのがわからなかったといいますが、兵力の差が歴然。如来堂に立てこもり交戦を試みますが、一気に攻め落とされてしまったのです。

生き残った隊士のその後

山口次郎(斎藤一)久米部正親池田七三郎
河合鉄五郎吉田俊太郎清水卯吉
志村武蔵高田文二郎(脱出?)荒井破魔男(戦死)
小幡三郎(戦死)高橋渡(戦死)

布陣していた13人中11人の名前は隊士・中島登の「中島登覚書」「戦友姿絵」によって判明しています。

味方二十余人の小勢故、ほかに防禦の術なく尽く死す。
(島田魁日記)
敵不意に五百余人攻来るいえども、戦い更たに利なく、これに於て遂に尽く戦死す。
(立川主税戦争日記)

全員が死亡したと思われていましたが、名前の判明している11人中7人が如来堂を脱出していました。

斎藤一と清水卯吉

脱出後、斎藤一と清水卯吉は、会津藩兵の朱雀隊と合流し、最後まで会津藩とともに戦います。降伏後は越後国高田藩(現新潟県上越市)に預けられ謹慎。

朱雀隊 斎藤一事 一瀬伝八
・器械方 江川三吉事 清水卯吉

と、所属はちがうものの、2人とも会津藩家臣の位置づけで記録されています。

※最後まで斎藤に同行した清水は、この後消息不明


斎藤は会津藩とともに斗南藩に移り、居住後に藤田五郎と改名します。

明治7年(1874)頃には東京にでて結婚。現在の警視庁に出仕し、明治10年に警部補となって西南戦争に出征しています。

退職後は、東京高等師範学校付属東京教育博物館(現・国立科学博物館)の看守、東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛を勤めました。

大正まで生き、72歳で没した斎藤一ですが、「亡骸は会津の阿弥陀寺に葬って欲しい」と遺言したようで、今も最後までともに戦った会津藩士たちと同じ墓地で眠っています。

阿弥陀寺・藤田五郎の墓
阿弥陀寺|藤田家の墓

銚子で降伏した4人

  • 久米部正親
  • 池田七三郎
  • 河合鉄五郎
  • 吉田俊太郎

如来堂を脱出した4人は、戦闘中行き場を失った旧幕軍兵と水戸の諸生党と合流し、北上する新政府軍の逆ををついて南下し、大勢を挽回すべく「水戸城奪還」を計画します。

諸生党とは、藩内で改革派・天狗党と激しい抗争を繰り広げた、水戸藩の保守・門閥派のこと

この時の状況を池田七三郎はのちにこう語っています。

「久米部さんは、その頃三十歳位でしたが、なかなか気の利いた人物で…諸生派の人達をも、自分の意思通りに動かすような具合になりました」
(新選組聞書)

しかし水戸城での戦いは敗走におわり、4人を含む「江戸脱走兵」は銚子(高崎藩の飛び領)で降伏。江戸に送られ謹慎を命じられました。

そして翌明治2年(1869)3月に放免されることとなります(その後の河合鉄五郎、吉田俊太郎の行方は不明)。

久米部正親

猪野忠敬いのただたかと改名した彼は、明治政府兵部省に出仕。西南戦争で殊勲をあげ、陸軍中尉に昇進しています。

かつての同志・近藤芳助(川村三郎)は、「彼は文才があった」と評しています。

また近藤芳助は、猪野が所持する「近藤勇、土方歳三」の写真を借りて複写し、永倉新八に贈呈しています。

猪野は箱館で撮った土方の写真を、新選組の後援者だった医師・松本良順に頼んで借りたらしい

池田七三郎

20歳だった彼は、日本橋材木町にいた父のところへ行き「そのまま両刀と捨てて商人になって終わったという訳です」(新選組聞書)。

実名である稗田利八ひえだりはちに戻った彼は、東京の代々木富ヶ谷に住み、昭和4年(1929)に『新選組三部作』の著者である子母澤寛の取材を受けています。

「今でも毎年一度は、庚申塚こうしんづかの近藤先生の墓所(新選組慰霊碑:板橋駅前)に詣でてその冥福を祈っております。本当に先生はお気の毒な方でした。…この先生のお墓参りが、この老いぼれの唯一の楽しみですよ」
(時事新報)

90歳で現在の東京都大田区で没し、昭和まで生きた彼は「新選組最後の隊士」といわれています。

志村武蔵

如来堂を脱出したあとの足取りは不明ですが、東京にでて明治も生きたようです。

永倉新八は、晩年の『遺稿』に「年月不詳 新選組同志 東京にて病死 志村武蔵」と記しています。

如来堂へのアクセス

如来堂の最寄りは会津バス坂下線「神指黒川」、そこから徒歩20分のところにあります。

街の中心部から離れており、バスも1時間に1本あるかないか…となかなか行きずらいのでレンタカー、晴れた日はレンタリサイクルがおすすめ!

城下町レンタサイクル
 1日600 変速ギア付自転車
 市内3か所にステーションがあり、3か所どこでも乗り捨てOK

電動自転車のレンタルもありますが、会津若松市は飯盛山・東山温泉へ向かう道以外はほぼ平坦なので、アシストなしでも楽に観光できます♪

七日町から道なりにまっすぐ進み、神指黒川バス停ちかくの信号を左折します。

如来堂への道のり
この道を奥までひたすら直進!

前をみても左右をみても周りに何もない!ひらけていて気持ちがいい!民家もなくあるのは畑だけで人も全く通りません。

如来堂への道のり
如来堂への道のり

永遠と直進した先に草木が生い茂った小さな森があらわれます。

如来堂
如来堂
如来堂
赤い屋根の建物が如来堂
如来堂

かなり朽ちてしまっていますが、当時の姿を残す貴重なもの。ここで新選組が立て籠もって戦ったのかとおもうと、取り壊さずぜひ保全してほしいと願う。

如来堂のイチョウの木
立派なイチョウの木
如来堂裏の神社
如来堂の裏手には神社が…

景色があまりにも綺麗で、少し泣きそうになります。遠いですが新選組、斎藤一ファンはぜひ訪れてこの空気を味わって欲しい。

如来堂からの景色

周辺おすすめスポット

中野竹子殉節碑

神指黒川バス停の近くに、大河「八重の桜」で黒木メイサさんが演じられた中野竹子の殉節碑があります。

「君国の危急を傍観することは忍びない」と、竹子を中心とした娘子隊じょうしたいは髪を切って男装姿で隊に加わります。

如来堂へ向かう道中にある柳橋(涙橋)で長州・大垣藩と遭遇し戦闘が開始され、娘子隊も薙刀で奮闘しますが、竹子は敵の銃弾にたおれました。このとき20歳前後だといわれています。

才色兼備で男にも引けを取らない竹子は、山本八重とならぶ会津のハンサムウーマン

中野竹子殉節碑
 福島県会津若松市神指町大字黒川街道西250付近
 会津バス「神指黒川」から徒歩3分
 見学自由

あんことおはぎ 日々餡

日々餡

創業大正10年、会津の地で100年以上あんこを作り続けてきた餡工場が手がける美味しいおはぎが味わえます。

こちらもアクセスしづらい場所にありますが、行く価値あり!

隣の工場で練り上げた甘さ控えめの”できたて”あんこを使用した、おはぎや大福は絶品。種類豊富で目移りしちゃいます!

「七福おはぎ」は一口サイズのカラフルな7種類のおはぎが曲げわっぱに入っていて、かわいらしくインスタ映えすること間違いなし!

あんことおはぎ 日々餡
 福島県会津若松市真宮新町北2-1
 如来堂から3km先 自転車で15分
 10:00~ ※おはぎ・大福が完売次第終了
 定休日:日・月曜、その他不定休
 https://hibian.jp

如来堂の戦いまとめ

この戦いによって散り散りになった新選組。会津新選組の最後の戦いはこの如来堂であったと考えます。

余談ですが、愛宕神社の方にお話を伺った際、「近藤様」と呼んでいたのが印象的でした。

彼らが会津に残留することを選ばず、全員で北へ向かっていたら…会津での「新選組」の評価は今のようではなかったかもしれません。

如来堂と傍らのイチョウの木、平野と山々。恐らく150余年前と変わらない、彼らもみていたであろう景色を眺めながら想いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

如来堂(新選組殉難地)
 福島県会津若松市神指町如来堂41
 会津バス「神指黒川」から徒歩20分
 見学自由
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