日本史で必ず通る「江戸無血開城」。勝海舟と西郷隆盛が膝を突き合わせて会談する絵は、一度は目にしたことがあるはず。
じつはこの会談の成功、勝海舟ひとりの偉業ではありません。キーパーソンは高橋泥舟と山岡鉄舟。いわゆる「幕末三舟」のファインプレーがあってこそ成し得たものなんです。
学校では習わない江戸無血開城に至るまでの「幕末三舟」の裏側、そして3人の人となりをあわせてご案内します。
舞台は京から江戸へ
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに旧幕府軍vs新政府軍の戦い、「戊辰戦争」がはじまります。
しかし、京都に在陣する志士たちの血気を後目に、幕軍の将である徳川慶喜は1月6日、会津藩主・松平容保など少数の重臣だけを連れ、江戸へ戻ってしまいます。
天皇を重んじる「尊王」の教えが根強い、水戸の流れをくむ慶喜にとって、朝廷に弓引くことは避けたかった。自分が京に残ることで戦が拡大するのを防ぎたかったのではないかと考えられています。
この頃江戸にいた三舟の年齢は、
■ 勝海舟 46歳
■ 高橋泥舟 34歳
■ 山岡鉄舟 33歳
泥舟は天保6年うまれ。坂本龍馬や土方歳三と同い年です。
まだまだ若い彼らが、日本を動かした。そしてこの後、三隻の舟は日本の未来を背負うことになるのです。
「槍一筋」信頼と実績の高橋泥舟
うまれは槍の名家である旗本・山岡家。
泥舟自身も「海内無双」とよばれ、講武所の槍術師範に任ぜられるほど、神業に達していたといわれています。

講武所とは、ペリー来航に際して外敵に対応すべく、阿部正弘が安政の改革の一環として、武士を鍛え直すために創設した訓練場
泥舟の妹・英子の夫である小野鉄太郎は、のちの山岡鉄舟。泥舟は鉄舟の義兄にあたります。
文久2年(1862)泥舟28歳、この時まだ将軍後見職の一橋慶喜の側近として京に随行。
慶喜は天保8年うまれ、泥舟の2つ年下。泥舟は慶喜に信頼され、よき相談役として慕われていたといいます。
このあと泥舟は失脚し、江戸へ戻ることとなりますがそのお話は後ほど…
説得そして義弟へ託す
幕府が鳥羽・伏見の戦いに破れ、江戸へ逃げ帰ってきたあと、尊王派であった泥舟は慶喜に「戦わず恭順すべき」と勧めます。
信頼のおける泥舟の言葉を受け、慶喜は寛永寺に謹慎。泥舟はその護衛につきます。
侵攻する新政府軍に恭順の意を示すため、官軍・西郷隆盛への使者として、誠実かつ剛毅な泥舟に白羽の矢が立ちますが、寛永寺のまわりには「新政府軍に一矢報いるべし」と彰義隊や旧幕臣らがいきり立っています。
恭順反対派が何をしでかすかわからない中、慶喜の側を離れることはできないと泥舟が代わりに選んだのが義弟の山岡鉄舟です。
泥舟の晩年
江戸無血開城成立後の泥舟は、慶喜が江戸から水戸、そして駿府(静岡)に移住するのに従い、護衛役をつとめています。
廃藩置県後、賊軍とされた旧幕臣らも新政府に出仕するなか、泥舟は慶喜とおなじく政治には関わらず隠居し、書画骨董の鑑定などで後半生を送ったといいます。享年69歳。
勝海舟は泥舟を後年こう評しています。
あれは大馬鹿者だよ、何しろ物凄い修行を積んで、槍一本で伊勢守になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね
決して蔑んでいるわけではなく、泥舟のまっすぐで実直な性格とポテンシャルの高さを勝流に称賛している言葉です。
またこんなエピソードも残っています。
義弟の鉄舟が53歳で先に亡くなった時、山岡家に借金が残りました。その返済を義兄である泥舟が工面することになるのですが、泥舟にも大金の手持ちはありません。
金貸しに借用を頼みにいくのですが、泥舟は「この顔が担保でござる」と堂々といい、相手も「高橋先生ならば決して人を欺くことはないでしょう」と、顔一つの担保を信用して引き受けたとか。
「剣・禅・書の達人」山岡鉄舟

身長約188cm、体重105kgと当時としては考えられないほどの大柄な体格で、坂本龍馬とおなじ北辰一刀流、さらに中西派一刀流、忍心流槍術をまなび、武芸にたいへん秀でていたといいます。
文久3年(1863)、28歳のとき、盟友であった清河八郎とともに、みなさんご存知「新選組」の前身である「浪士組」を結成し、浪士取締役として近藤・土方らとともに京にのぼります。

浪士組とは、14代将軍家茂の上洛にあわせて、将軍警護のためつくられた組織。というのは表向きの言い分で、実際は幕府とは切り離し、尊皇攘夷の先鋒として利用しようと清河が策略して結成したもの。

この浪士組の責任者に抜擢されたのが、清河とも面識があり鉄舟の義兄でもある泥舟でした。
清河は京都残留組(芹沢や近藤らのちの新選組)をのこし、本来の目的のため江戸へ帰還します。が、幕府側に危険視されていた清河は刺客によって暗殺されるのです。
それにともない行動を共にしていた鉄舟と、浪士組の責任者となっていた泥舟は失脚。謹慎処分を受け、歴史の表舞台から姿を消します。
そして、2人が再び表舞台に立つことになるのが「江戸無血開城」なのです。
命がけの交渉
義兄・高橋泥舟に新政府軍への使者として任ぜられた折、西郷と面識のなかった鉄舟は、勝海舟のもとへ行き、事の次第を伝えます。
恭順一貫の意をきいた海舟はその旨を書状にしたため、鉄舟はそれをもって官軍が布陣していた駿府へ向かうのです。

朝敵 徳川慶喜の家来 山岡鉄舟、大総督府へまかり通る!
鉄舟は大声で叫びながら、堂々と敵陣へ乗り込んだといいます。この度胸と豪胆っぷりは日々の鍛錬で培われてきたものなのでしょう。
すでに総攻撃は3月15日と決定していましたが、敵地に単身で乗り込む鉄舟の真摯な姿勢に西郷は感じ入り交渉に応じます。
一、将軍慶喜の備前池田藩へのお預け
一、江戸城の明け渡し
一、兵器の引き渡し
一、軍艦の引き渡し
一、徳川家臣の向島移住
一、慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰する
一、暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧する
鉄舟は西郷から提示された開戦回避の条件を受け入れます。ですが、「慶喜のお預け」だけは承諾しかねると断固拒否。問答が続きます。
備前藩主・池田茂政は慶喜の弟にあたりますが、すでに新政府軍の支配下。お預けとは捕虜になるようなもの。

意見できる立場でごわすか

もし…逆の立場だったら、黙って君主を渡すほど西郷さんは忠義を欠いたお方ですか?
この言葉に西郷は引き下がり、その一条のみ西郷が預かる形で保留となったのです。(最終会談で慶喜は故郷の水戸に隠居することを許されます)
そして鉄舟は会談の詳細を決めおわると、

死ぬ覚悟で来ました。私の処遇は好きにしてください。

…縛るヒモはなか。代わりに酒を用意しもんそ
西郷は鉄舟の忠義に感銘を受け、もてなしをしたうえ、帰りは西郷お墨付きの通行符を渡したといいます。
西郷はそんな鉄舟をこう評しています。
金も名も、命もいらぬ男は、始末に困るが、そのような人でないと 国の偉業は成し遂げられない
こうして江戸無血開城への道が開かれることとなり、通行符のおかげで無事江戸に帰還した鉄舟が持ち帰った交渉内容で、海舟が最終会談に挑むのです。
鉄舟の晩年
慶喜は謹慎先の水戸へ向かう前夜、

官軍に対し第一番に行ったのはそなただ。一番槍は鉄舟である
と功績を称え、鉄舟に「来国俊」の短刀を与えたといいます。
明治維新後は、西郷の推薦により、この時21歳の明治天皇の侍従に任ぜられ、その後10年間そばに仕えています。
スーパーでもみかけるあんぱんでおなじみの「木村屋」。鉄舟は木村屋のあんぱんが大好きで毎日のように食べていたと言われていますが、そのあんぱんの普及には、鉄舟が深く関わっています。
一刀流各派を学んだ鉄舟は、自身で「一刀正伝無刀流」を開きます。
刀に依らずして心を以て心を打つ。
最終的な局面で大切なのは小手先の技術ではなく心である。
誠実かつ豪胆、そして「心」を尽くした鉄舟の生き様に、敵味方関係なく人びとは魅了されたのでしょう。
享年53歳。皇居に向かって結跏趺坐(座禅の坐り方)をしたまま息を引き取りました。
胆力と駆け引きの勝海舟

海舟の来歴についてはこちら▼
幕臣でありながら反幕的思考を持っていた海舟は、幕府内でも危険視されていたため、この頃は主だった幕府の任から外されていました。
そんな時、榎本武揚や大鳥圭介らとおなじく徹底抗戦を主張する幕臣・小栗忠順が罷免されます
慶喜は「薩長軍を殲滅する」という小栗の作戦を実行すれば、日本だけでなく英仏を巻き込んでの本格的な戦争がはじまってしまうと危惧したのです。
そして幕政を取り仕切っていた小栗の後任に選抜されたのが、勝海舟でした。
軍艦を率いて戦うかそれとも従うか…考えあぐねていた最中、慶喜そして泥舟の恭順の意向を携えた鉄舟が訪ねてくるのです。
そして最終会談へ
鉄舟と西郷の交渉で開戦回避の道がひらけたとはいえ、官軍が総攻撃の準備を進める手はまだ止まっていません。
江戸の、日本の命運を託された海舟が交渉で持ちかけたのが「江戸焦土作戦」でした。
もし、この談判が決裂した場合は江戸に火を放つと「脅し」をかけたのです。
「脅し」といえど海舟は慶喜をイギリスに亡命させる準備をすすめ、友人であった火消しの元締め・新門新五郎や博徒の親分らを一人ひとり訪ね、江戸市民を逃したうえで火を放って欲しいと手を回していました。
日頃から江戸の市民と深く関わり、信頼を勝ち得てきた海舟にしかできない芸当です。

攻め込んできたら江戸を火の海にするヨ。焦土と化した江戸に入ってきても官軍はなにもできない。そしてその原因をつくった官軍に対する民衆の憎悪は拭い去ることはできないだろうサ。
一世一代の大勝負です。
当時、新政府軍の後ろ盾となっていたイギリスから「恭順している慶喜を討つのは国際法に反する」と攻撃を反対されていたこと。
なにより江戸の町と人びとを守りたいという海舟の願いと覚悟に、西郷は折れます。
一、慶喜は故郷の水戸で謹慎する
一、慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない
一、武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す
一、城内居住の者は、城外に移って謹慎する
一、江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う
一、暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する

委細承知致した。しかしながら、これは拙者の一存にも計らい難いから、今より総督府へ出掛けて相談した上で、なにぶんのご返答をいたそう。が、それまでのところ、ともかくも明日の進撃だけは、中止させておきましょう。(氷川清話)
こうして4月11日、江戸城は無抵抗で明け渡されることとなったのです。
江戸無血開城と三舟まとめ
この江戸総攻撃、じつは攻撃が開始されたら一切の恭順は認めないと新政府軍は徹底攻撃を決めていました。
鉄舟が西郷を訪ねたタイミングは、その条件に当てはまらないとして交渉に応じています。
そして海舟が西郷と江戸薩摩藩邸で会談を行ったのは3月14日、総攻撃の前日。少しでもズレていたら、手遅れだったのです。
もし総攻撃が実行されていたら…市民の犠牲は免れないうえ、混乱に乗じて西洋列強が介入、欧米の植民地になっていたかもしれない。
泥舟が諭し、鉄舟が道を開け、海舟が落とす。この江戸無血開城が成立したからこそ、日本はこのあと急速に近代国家への歩を進めることができたのです。